仮母女(かもめ)

今日は洋子(彼女)と初めての1泊旅行。

と行っても、家から電車で2時間ほどの、県内北部にある温泉旅館だが。
それでも俺は、家が厳しく外泊自体が禁止だった洋子が、
「女友達と行く」と親に嘘をついて、やっと実現したこの旅行に、かなりテンション上がりまくりの、頭の中はお花畑であった。

適当に写真を撮ったり、名物の菓子を食べ歩きながら、旅館には15時頃着いた。
2階建てで、小さく古いながらも、一応露天風呂のある旅館だ。
最初の事態はチェックインのときに起こった。

「いらっしゃいませー。ご予約のお名前は?えー…。○○洋子様ですね。……え?!」
旅館の女将さんは、かなり驚いて困惑した様子でこちらを見ている。

「あのー。何か…?」
俺が尋ねると、非常に焦って困った調子で
「お客様、失礼ですが、確か女性2名様でご予約を承ったはずですけれども…。」

そう言えば洋子の親が、もし旅館に問い合わせたときに(やりかねない親なのだ)嘘がバレないよう、洋子が友達の名前を使って、女2名で予約していたのだった。

「あのー、急にその子が来れなくなって…代わりの者なんですが、良いですか?」
洋子が不安そうに尋ねる。

「申し訳ありません、お客様。ご用意させて頂いたお部屋は女性専用のお部屋で…男性のお客様はお泊めできないんですよ。かと言って他の空き部屋もございませんし…。」
女将が、先程よりやや毅然とした態度でそう答えた。

「そんな…。」
温泉旅館に女性専用部屋なんてものが存在することすら初めて知ったし、ウキウキ気分を害されて、俺は少し怒った調子で抗議した。

「申し訳ありません。もともと当方が説明不足でしたので…キャンセル料はいりませんから、他のお宿を当たっていただけませんか?」
「そんな…。他の旅館は電話してもどこもいっぱいだったんです。やっとこちらで予約がとれたので、とても楽しみにしていたのに…。」
洋子が泣きそうな声で抗議する。俺もそれに加わる。
「お願いします。妹は本当にこの日を楽しみにしていて、友達が急に都合悪くなって落ち込んでいたので、兄の僕が一緒に来てしまったんです。」
俺は、何となく「彼氏」と言うよりは印象が良いかと思って、口からでまかせで頼み込んだ。

「あ…。ご兄妹でいらっしゃいましたか?…失礼ですが何か証明できるものございますか?」
女将の態度がふとゆるんだ。

(おっ?兄妹ならOKなのか?)俺はこの作戦を通すべく、なおも食い下がった。
「ちょっと今日は何も持ってないんですが…でも家族風呂は利用しませんし、(この地方は条例で、家族の証明がないと家族風呂を貸切りできない。)お部屋だけでも泊めて下さい。お願いします。」

家族証明がないと部屋に泊まれないなんて条例はない。
旅館の規約にはあるのかもしれないが…そんなものどうとでも(?)なるだろう。
1時間ほど押し問答した末、最後は洋子の泣き落としも加わり、

「…かしこまりました。ではお泊めしますが…。あの、大変申し上げにくいのですが、その…いかがわしい行為だけは絶対なさらないで下さいませね。まぁ、ご兄妹ですので当然なさりませんでしょうが…これも一応お伝えする決まりですので…。」
やっとのことで女将が折れた。イライラが頂点に達していた俺は、必殺アイアンクローが炸裂する前に事態が収拾し、ホッとした。

部屋に上がったらもう16時を回っていた。
俺たちはさっそくそれぞれ温泉を堪能した。
18時から夕食の海鮮料理に舌鼓を打ち、また温泉に入って、夜になった。

色白で、長い黒髪を後ろで一つにまとめた洋子は、浴衣が本当によく似合っていた。
俺たちは女将の忠告を無視して、当然いかがわしい行為(笑)を楽しみ、23時ころ消灯した。

異変は深夜やってきた。
真夜中、トイレに行きたくなって目が覚めた。
(ちょっと飲み過ぎたかな?)
すぐ隣では洋子が寝息をたてている。

さていざ起き上がろうとすると…体が動かない。金縛りだ。
(やべー。マジで飲み過ぎた?まだ酔ってんのかな?)
隣に洋子がいることもあり、そんなに恐怖は感じていなかったので、目だけ動かして部屋の様子をボンヤリ見回した。

…後悔した。
布団の横、洋子を隔てた向こうの壁に押入れがあるのだが、そこが四分の一ほど開いていた。
そこに…そいつがいた。

押入れの襖の隙間からそいつは、こちらを見ていた。
押入れ上段の暗がりに浮かぶ、真っ白な顔。
髪は肩くらいだろうが、ぐちゃぐちゃに乱れており、正確にどのくらいの長さか分からない。

女だ。

確かあの押入れは布団が入っていたところだから、今なら人は入れるだろうが…
いや、そもそもあれは生きた人にはとても思えない。

女は、和服のようなものを着ていた。
襟元しか見えないが、恐らく着物だろう。色はよく分からないが、茶色か黄色のような色だ。
女は、ものすごく憎悪に満ちた形相でこちらを睨んでいる。
眉は剃っているのか、薄いのか、とにかく眉がない。
目は般若のようにカッと見開き、まばたき一つせずジッとこちらを睨んでいる。

そしてその目は…真っ赤だ。
眼球全体が真っ赤な血の色に染まっている。
そして黒目部分は…白く透明に濁ったような色をしていた。

以前、白内障の人をテレビで見たが、そんな感じの目だ。(その人は眼球全体が白濁していたが)
だがこいつは、白濁した水晶体の周りを、真っ赤な血溜まりが覆い、この世のものとは思えないほど邪悪な醜悪な目をしていた。

「…ひっ!」
俺は声にならない声を漏らした。
目を閉じたかったが、なぜか今まで動かせていた目までも自由を奪われてしまった。
(ヤバいヤバいヤバいヤバい!!)
永遠とも思える時間、そいつは俺のことを真っ赤な目で睨み続けていた。
(怖い怖い怖い!!洋子起きてくれ!)
すると、女は急に嬉しそうにニターッと顔を歪ませて笑った。真っ白な手が押入れの襖にかかる。ゆっくりと襖が開いていく。

―カタカタカタ…

静寂に響くその音が、これは現実に起きていることなんだと、妙にリアリティーを与える。
襖が半分ほど開いたところで、女が押入れから降りてきた。ゆっくりとこちらに近づいてくる。
(怖い怖い怖い!!来るな来るな来るな!!))
俺の頭の中の叫びが聞こえているかのごとく、女は楽しそうにニターッと笑う。
今度は口を大きく開けて笑っている。
女の口には歯が生えていなかった。
女はまだ若かったが、その歯のない口だけが、老婆のような印象を与え、ことさら不気味である。
真っ白な顔に、真っ暗な穴のように空いた口。
そして真っ赤な眼球に白濁した瞳。見ているだけで涙が出るくらい恐ろしかった。

―シュッシュッ

衣擦れの音とともにゆっくりと女は近づいてくる。
真っ白な手を前方にフラフラ漂わせ、暗闇をまさぐるようにしてやってくる。

とうとう手が届くほどの距離に近づいてきた。
(やられる!)
恐怖と絶望で、俺の毛穴という毛穴が開き、そこから汗が吹き出る。

…しかし、女の目的は俺ではなかった。
女と俺の間に横たわっている洋子。俺の可愛い彼女。
その洋子の枕元に屈み込んだそいつは、真っ赤な目を見開き洋子の顔をジーッと覗き込んでいる。

そしておもむろに、そいつは洋子のまぶたの上に人差し指を乗せた。
閉じられたまぶたの下にこんもり盛り上がる洋子の眼球を、そいつは人差し指の先でぐぐぐっと押している。
よほど力を入れているのか、人差し指がプルプル震えており、また洋子の眼球もそれに合わせて痙攣している。

(やめろ!やめてくれ!)
俺の願いもむなしく、

―プチッ

という音とともに洋子のまぶたから血の涙が流れる。
女はそれを見て満足そうに真っ赤な目を細めて喜んでいる。
そして、残されたもう片方の眼球を潰しにかかる。

俺の股間に生暖かいものが流れる。
失禁と同時に、ようやく俺は気を失うことができた。

翌朝、朝食を知らせる電話の音で目が覚めた。
俺は、起きた瞬間あの女の顔が脳裏にくっきり浮かび、また失禁の跡と、両目から血を流し気を失っている洋子の姿を認めて

「うおーーーっっ!!うわーーっ!!」
と叫び声を上げた。
混乱した頭のまま電話を取り、
「女が…!目が真っ赤で!彼女の目が……!」
と訳の分からないことを半狂乱で口走ったのだが、すぐに従業員数人が血相変えて飛んで来てくれた。

洋子は目に包帯を巻かれて、旅館の車でどこかに連れていかれた。(なぜか救急車は呼んでもらえなかった)
俺は、少し落ち着いてから3畳ほどの従業員休憩室のようなところに通された。
そこには女将が怒ったような、悲しいような顔をして待っていた。

「あなた方、ご兄妹ではなかったのですね。私がお部屋にご案内する前に申し上げた約束を破られた…。つまり…禁忌を犯したことになりますね…。」

…そして女将は、この土地にまつわる禁忌…恐ろしい話を聞かせてくれた。

昔、この土地には仮母女(カモメ・または単にカモと呼ばれていた)という風習があった。
お嫁さんが不妊症で子宝に恵まれない家に、その嫁に代わって子孫を残す女のことだ。
正妻と側室のような感じと思われるかもしれないが、仮母女は、純粋にお金で買われた、「妊娠・出産」を提供するだけの商品なのである。

仮母女は、身売りされた貧しい農家の娘や孤児から成っており、それを仕切っていたのは、この旅館の地主だったという。
旅館の一室で仮母女と男が事を行い、妊娠が判明したら、その日から1年間、仮母女はその夫婦の家で養われる。
栄養失調などで流産すれば、それは各夫婦のカモ管理ができていなかったからということになる。
ほとんどの仮母女は、押入れなどに閉じ込められ、人目につかないよう養われた。

晴れて出産すれば、お産の翌日には旅館に戻されて、また妊娠可能な体に戻り次第、仕事に戻る。
今では考えられないような過酷で悲しすぎる労働だ。

だが、悲惨さは更に加速する。
ある年、カモに情が移った男が、カモと駆け落ちしたり、また子供に情が移ったカモが子供をさらって逃げるという事件が続発したのだ。
地主は困った挙げ句、ある恐ろしい方法を思い付く。

―――仮母女の目を潰したのだ。

カモが寝ている隙に、もしくは薬で気を失わせて、その間にカモの目を刃物で刺して、潰した。

目に傷を負ったカモの顔は、情が移らないほど醜くなった。
目が見えなくなったカモは、子供をさらって逃げるような真似は到底できなくなった。
醜い顔のカモと事を為すのは、男が苦労するため、それ以来ほとんどの男が、自分の嫁をカモ部屋に連れ込み、嫁に協力してもらいながら3人で事を為したという。
ときには、カモの醜悪さを際立たせるため、無理矢理全ての歯を抜いたりもした。

既にこの頃からみんな狂い出していたのかもしれない…。

カモの目を潰すようになってから、2年ほどして村に異変が起こった。
今までカモが生んできた子供たちが、みな一斉に狂いだしたのだ。
目は焦点が定まらず、よだれを垂れ流し、

「ぎょえーー!ぶふふふー…!」
と奇声を発しだしたのだ。また一部の子供は、瞳が白く濁り、視力を失う者もいたという。

カモ以外から生まれた子供には何の異常も見受けられなかったため、「これはカモに原因があるのでは」という噂が立ち、またカモ離れが起きだした。
焦った地主は、有名な医者を呼んだり、祈祷師を呼んだり八方手を尽くしたが、一向に原因が分からない。

そんなある日、噂を聞き付けた某寺のお坊様がやってきた。
お坊様は旅館のカモ部屋に集められた、目の潰された女たち(当時6人)を一目見るなり、

「なんと…むごいことを…。」
と言葉を失った。

そして地主に向き直り、カッと厳しく睨むと、こう言った。
「この地には、お腹を痛めて生んだ愛する我が子を、一目も拝むことなく亡くなってしまった母の強い怨念が張りついておる。このような人外のものが行うような商売は、今日これ限りにしないと、その内この土地の人間全ての気が狂ってしまいますぞ。」

それを聞いた地主は非常に焦った。地主の一族もこの土地にたくさん住んでいるからだ。
「分かりました、お寺様。仮母女業は今日限り二度と行いません。それで、おかしくなった子供たちは治るのでしょうか?」
震えた声で尋ねる地主に、お坊様は首を振りながら答えた。

「残念ながら、そう簡単には治らんよ。これまで亡くなった女性の供養をせねばならん。」
「墓には一応入れておりますが。」
地主が上目遣いで答えると、お坊様はまた首を振って続けた。
「それでは不十分じゃ。まず小さなカゴを用意しなさい。」

お坊様の言い付けにならって、地主は女中に硯箱くらいの小さなカゴを持ってこさせた。

「このカゴに、人の目と同じ大きさの水晶を2つ入れなさい。そう、無念にも潰された女たちの目の代わりじゃよ。それから、その女性たちが生んだ子供たちの、へその緒を当事者たちから集めて同じカゴの中に入れなさい。」

地主は狼狽した。

「そんな大きな水晶…しかも2つも…!!いくらかかると思ってるんです?それにへその緒を集めるってのも難儀な仕事ですなー。なんせへその緒はみんなお客さんに渡してるし、その人たちは、今うちを恨んでおりますからねー。子供が狂ったのはお前らのせいだーってね。」

お坊様は呆れを通り越して、哀しい目をして言った。
「あなたはこれまで私利私欲のために、罪のない女性の目を潰し、望まないのに無理矢理男に体を汚させ、挙げ句母と子を引き離させてきたのですよ。その上まだお金のことを心配するとは…救いようがない…。ここに残った目の見えない女性6人は私が今日から引き取って、お世話させていただきましょう。あなたが心を入れ替えない限り、この土地の怨念は今後ますます大きくなっていくでしょうな。まさに言葉どおり…救いようがなくなります。…今がギリギリ手遅れになる一歩手前ですぞ。」
お坊様は静かに、しかし怒りの色を目にたたえてこう諭した。

「…分かりました。じゃ、今すぐにでも水晶とへその緒を調達してきますよ。…で、それをカゴに詰めたらどうするんですか?」

「水晶は亡くなった女性たちの目に代わって、またへその緒は、その方たちが生んだ子供の身代わりとなって、晴れてその姿を拝むことができましょう。カゴに詰め終わったら、その方々のお墓に、お骨と一緒に埋めて供養しておやりなさい。」

そしてしぶしぶながらも、地主はお坊様の言い付けを守った。
眼球大の水晶2つ(これを買うために土地の半分を売った。)と、狂った子供たちの親に土下座して回収したへその緒。それらをカゴに入れて仮母女の墓に埋めてやった。
(一説には、カゴの目→カゴメが訛ってカモメとなり、後々になって「仮母女」と当て字が使われたとも言われている。)

まぁ、それ以降、子供たちはだんだんと元に戻り、会話ができるまでには回復したのだが…
しかし父母の顔はいつまでたっても認識できなかったらしい。
そしてこの土地で「仮母女」の話は余所には絶対漏らしてはならない禁忌、タブーというやつになった。

そしてその後、旅館は裏稼業などに一切手を染めることなく、何人かの人の手に渡って、今は女将が切り盛りしているという。
ちなみに、今の女将と当時の地主は全く血縁関係ではないらしい。

ここまで女将の話を聞いて俺は口をやっと開いた。

「ちょっと待って下さいよ。じゃあ昨日の夜俺らの前に現れたのは、そのカモメ?だとして、もうその呪いとか怨念は消えてたんじゃないんですか?!」
女将は首を振りながら答える。
「それがね、まだ続きがあるんですよ…。」

先述の地主は、仮母女の供養後も商売全てが上手くいかなくなり、とうとうこの旅館も土地ごと手放すことになった。
その旅館を引き継いだ者は旅館を改築し、かつてカモ部屋として使われていた一室も客室に改装した。
もう怨念は晴れたと考えられていたからだ。

ところが…その部屋に泊まった者から数々の、アレの目撃談が寄せられた。
押入れの中の、真っ赤な目をした歯のない女だ。

旅館の主人は急いで、先述のお寺のお坊様に来てもらった。
その部屋に入るなり、お坊様は眉をひそめ、すぐに主人に言った。
「今すぐ彼女たちのお墓を調べなさい。」

主人とお坊様が一緒に仮母女の墓を掘ってみると…果たしてカゴの中の水晶が消えていた。
あの地主がこの地を離れる際にあろうことか墓を暴き、仮母女の眼球…
そう、水晶を盗み出していたのだ。主人は慌てふためいた。

「どっ…どうしましょう?!あの地主、この村を離れて以来、消息がつかめないって話ですぜ。しかも私にはあんな水晶を買うようなお金なんてありませんよ!」

お坊様は静かにこう言った。

「落ち着いて下さい、ご主人。見たところ、ここにいたほとんどの女性は成仏しております。ただ一人だけ、目を潰されて、しかも歯まで抜かれていたとかいう者の怨念だけ微かに残っていますね。ただ、この者も…こちらが怒らせない限りは、まぁほとんど害のない程度の怨念になっています。」

主人は少しホッとした表情を浮かべ、聞いた。
「一体どうしたら良いんでしょうか?すぐにでも成仏してくれないんでしょうか?」

お坊様は答えた。
「まぁ、すぐには無理でしょうな。とりあえず、何となくこの事態は予想していたので、ひとまずはこれを埋めましょう。話の続きはそれからです。」
そう言って、袈裟の袂から眼球大のガラス玉を2つ取りだし、へその緒のカゴに納めて再び埋めた。

旅館の仮母女の間に戻り、お坊様の話が続いた。

「この部屋にいる女は、以前埋めていた水晶の力で、ある程度の気は晴れておるようです。でもやはり、まだ悔しい、悲しいという念は残っていますな。まぁあんな仕打ちを受けていたのだから無理もないでしょうが…。しかし今から言う決まりさえ守れば、この部屋を客室として使うことに差し障りはないですぞ。」

主人は驚いた。

「えーっ!?こんな幽霊部屋…使っていいんですかい?!」

お坊様は静かに、たしなめるように答えた。

「これから私が言う決まりを必ず守らなければいけませんがね。まず1つ目。なるべく男女の組を泊めないこと。男と女が対で泊まれば、アレは昔の忌まわしい仕打ちを思い出して、押入れから顔を覗かせるでしょう。まぁ、単に覗くだけで特別に害は為しませんが…それでもアレを見た人はびっくりしてしまうでしょうからね。家族であっても男女の組ならばアレは覗いてきます。」

主人は「はい。はい。」と熱心に覚書きに記しながら、話を聞いている。お坊様は話を続ける。

「2つ目の決まりですが、こちらは大事です。この部屋で不浄な行い(男女の営み)を決して行わないこと。それは必ずアレの逆鱗に触れるでしょう。何をしでかすか分かりませんが…とにかくとても恐ろしい害を与えてくるでしょう。」

主人は身震いしながら尋ねた。

「でもお坊様。そんなに恐ろしい霊なら、やっぱりこの部屋は閉じてしまった方がいいんじゃ…。」

お坊様は静かに首を横に振る。

「まぁ、それは最終的にはご主人の裁量に委ねますが…。しかし悪い霊というよりも、可哀想な霊なのですよ。怒らせさえしなければ出てくることもないでしょうしね、恐らく不妊の病を抱えるご婦人には、良い恵みを与えてくれるかもしれませんよ。仏様だって、我々の所業によって禍福それぞれをお与えになりますしね。」

そういう訳で、仮母女の間には女性客のみを泊めることになったという。不妊に効くという噂も広まり、そこそこ繁盛するようにもなった。
しかし、やはり中には俺と洋子のように決まりを破る客もいたらしい。

「それで…その決まりを破ったカップルはどうなったんですか?」
俺は背中に汗をぐっしょりかきながら、女将に詰め寄った。
クーラーの冷気がその汗を冷やし、ずっと背筋がぞくぞくする。

「…貴方があったのと同じ目にあっています。仮母女は、自分の部屋で夜の営みをした男女を激しく憎み、女の目を潰します。…そして、話によると、どうやらその…子宮をも潰してしまうらしいです。そう、一生子供が生めない体にしてしまうのです。」

俺は言葉を失った。

「そっ…そんな…。俺、昨日途中で気を失ってたけど…アイツ洋子の体にそんなこと…。」

怒りと恐怖で震える俺を悲しそうに見つめて、女将は続けた。

「私も、これ以上は説明申し上げるのも心苦しいのですが…。両目を潰された女性は、まず眼球が真っ赤に染まり、瞳が白く濁ります。恐らくあなたがご覧になったアレと同じ目になるんです。子宮は潰されているので、歩くたびに想像を絶する苦痛が襲うようですが…悲鳴などは決してあげることはないようです。ただ歩くとき異常に内股になるようですがね…。」

俺は心臓をギューッと鷲掴みされたように苦しくなった。

「洋子は…彼女は今どこにいるんです?!もう治らないんですか?!」

女将が答える。

「洋子さんは、例のお寺様に向かっております。仮母女に目を潰された女性は、完全に視力を失うまでに3日かかると言われています。その3日間は…洋子さんは洋子さんでなくなっています。仮母女が憑いているのです。そしてその3日のうちに男の方を…つまり貴方を探して憑きます。」

「3日…」

俺はゴクリと喉を鳴らした。

「そうです。3日です。ですから貴方はすぐにでもご自宅に戻って、3日間は決して家から出ないようにして下さい。3日経つと、洋子さんの視力は完全に失われ、また仮母女は離れていきます。…でも…恐らく正気の洋子さんに戻ることはもうないでしょう。貴方が3日を無事に過ごすことができれば…その状態の洋子さんになら会うことはできます。」

仮母女が3日だけ目が見えるというのは、墓のカゴに入れられたガラス玉のせいらしい。
もしそれが、以前の水晶だったら、その期間は1月以上になっていただろうとのことだった。…だが、そんなこと今の俺にはどうでも良かった。

今すぐ家に帰らなければ…。
そして3日たったら必ず洋子を迎えに行って、それから洋子のご両親に土下座して…
それから…それから…洋子の面倒は俺が一生見る!
そんなことをグルグル考えていたら、部屋の廊下をバタバタ走る音がして、部屋の襖が勢いよく開いた。
そこに立っていたのは…洋子の両親だった。

洋子の母親が俺の前に大股でズカズカと近づいてきたと思ったら…

―パーン!

口の中にジワーッと鉄の味が広がる。
頬を思いっきり殴られたようだ。口の中が切れている。

「あなた…あなた…!!よくも洋子を…!あんな嘘までついて…。よくも…よくも。」

洋子の母親は顔を真っ赤にして、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
父親は、そんな母をたしなめることもせず、じっと俺を睨んでいる。

「あなた…。彼氏なら…どうしてあの子を守ってやれなかったの?!なんであなたは平気で…洋子だけ…洋子だけあんな目に…!」

母親は化粧をしていたのだろうが、涙でマスカラやアイシャドウが溶けて、目の周りは真っ黒に染まっている。
どうやら旅館からの連絡で、ここに来る前に先にお寺に行って洋子の姿を目にしてきたのだろう。

「本当に…本当に申し訳ありませんでした!この責任は必ず取ります!一生かけて償いますから!」
俺も既に涙声になっていた。

その様子を見ていた父親が一言、
「とりあえず話は3日後ゆっくり聞かせてもらう。君は今すぐ帰りなさい。」

お寺の方で既に彼らも事情を説明されていたのだろう。
俺は畳に頭をこすりつけ土下座の体勢でしばらく黙っていた。

「いいから早く帰りなさい。」
再び父親の声が響き、肩をポンと叩かれ、家に帰るよう促された。

それから俺は急いで荷物を詰め(失禁したパンツだけ旅館に捨ててきた)、駅まで旅館の車で送ってもらい電車に乗った。
そして電車で2時間…やっと地元に戻ってきた。
見慣れた景色に戻って、(もしかして全部夢だったりして…。)
なんて都合の良い現実逃避をしていたら…
まるで(そんなことさせないよ)と言うかのように俺の携帯が鳴った。旅館からだった。

「もしもし。○○良一様(俺の名前)の携帯でしょうか。あの、私△△旅館の女将の△△ですが…。」
俺は、女将のただならぬ声のトーンに不安を抱きながらも
「はい。僕です。さきほどはどうもお世話になりました。」
と答えた。

「あっ、良かった…一応携帯を聞いておいて…。実は今しがたお寺から連絡があったんですが、洋子さんがお寺からいなくなったそうなんです!どうやら、少し目を離した隙にご家族が無理矢理、縄とお札をほどいてしまったみたいで…。ご家族の方ともどもいなくなってしまったんです!お坊様がすぐに洋子さんのご自宅に向かわれるそうですが、くれぐれも3日間ご用心なさいませね。絶対に外には出ないように、それとなるべくなら声も出さないようにして下さい。アレは耳が異常にききますから…。」

俺は携帯を耳に当てたまま、サーッと血の気がひいて、その場に倒れそうになった。
昨夜のアレの恐ろしい顔が…
見開かれた真っ赤な目が…
その中の白濁して焦点の定まらない瞳が…
ニターッとしたいやらしい笑いが…
歯のない空洞のような口が…
脳裏によみがえった。

俺は駅から全速力で自宅に戻り、部屋に閉じこもった。
家族が心配して声をかけてくるが、何も答えられない。
なるべく声も出したくない。
ご飯なんか喉を通る訳がない。
ただ頭の中とのどがカラカラに乾いている。

たった3日間だが、無事に過ごせる保証はどこにもない。
部屋のクローゼットの隙間からアレが出てくるかもしれない。

アレに憑かれたらどうなるんだろう?
俺も洋子みたいになるのか?
眼球が真っ赤になり、視力を奪われるのか?
気が狂ってしまうのだろうか?
いや、もう既に俺は狂ってきているのだろうか?

洋子は家族と一緒にいるのだろうか?
家族がまた寺に連れ戻してはいないだろうか?
洋子は俺のところに来るだろうか?

洋子の母親の声がよみがえる。
「なんで、あなたは平気で…!洋子だけこんな目に…!」

もしも俺が3日のうちに洋子に…
いや洋子の姿をした仮母女に見つかり、最悪とり殺されるようなことがあったら…。

どうか俺の家族は洋子を恨まないでほしい。
悪いのは、全部俺なんだから。
無理矢理洋子を旅行に連れだして、旅館の禁忌を犯してしまった俺の自業自得なのだから。

俺がこの手記を残すのは、真実を明らかにしておくためと、俺の家族に洋子を恨まないでもらうためでもある。
もし俺が3日の内に死んでしまったら、この手記を遺言代わりにしてもらいたい。

父ちゃん、母ちゃん、今までありがとう。
良二(弟)、小さい頃いじめてばっかでゴメンな。俺のゲームとマンガ全部お前にやるよ。

……。

その後、良一さんの手記は家族に対する感謝や、友人たちへのメッセージで埋められていたそうです。
この手記を私の友人(良二)が見つけたのは、つい最近のことだそうです。

そして良一さんは、今…県内の精神病院に入院しています。

—–以下、弟目線—–

兄がおかしくなった。

昨日、彼女との1泊旅行から兄が帰ってきたのだが、どうにも兄の様子がおかしい。
ずっと部屋に閉じこもって食事にも出てこない。
家が厳しい彼女との初めての旅行ということもあって(彼女の方は女友達と行くと嘘をついてきたらしい)旅行前は、かなりウキウキしていたのに。

昼飯前にさすがに心配になり、ドア越しに声をかけてみた。

「兄ちゃん、どうしたん?洋子さん(彼女)とケンカでもしたん?」

返事がない。

「…兄ちゃん?」

しばらくして、低くかすれた声で兄が答えた。

「洋子から電話あったら…俺はいないって言ってくれ。」
「もー!やっぱりケンカかよ?まぁ、とりあえず飯くらい食べろよ。」
「……。」

それから何度か呼び掛けたが、もう兄からの応答がないので、俺は諦めてリビングに戻り母の作った焼き飯を食べた。

夕方、家の電話が鳴った。
母は買い物に出ていたので俺が取った。
洋子さんだった。

「…洋子ですけど。良一君(兄の名前)いますか?」

俺は一瞬本当のことを言おうか迷った。
しかし、家の電話にかけてくるということは、兄が携帯に出ないということだ。
兄の頭がまだ冷えていない今、無理に兄に代わって、余計に事態が悪化しても困るし、何より後々、兄の制裁アイアンクローが怖い。

俺は答えた。
「スミマセン。今ちょっと出かけてて…いつ帰るかも分からないです。」
「……。…見つけた。」
「…え?」

―ガチャ。ツーツーツー。

なぜか嬉しそうにそう言って(心なしか、切る直前フフフっという笑い声も聞こえた気がした)
洋子さんは突然電話を切った。
何となく嫌な気分になった俺は気を紛らわすため、再放送のバラエティー番組の続きを見た。

夜、インターホンが鳴った。
「はーい。」
母が出た。
「洋子ですけど…。」

時刻は22時を回っている。
家がめちゃめちゃ厳しい洋子さんが、こんな時間に外出するなんて、よっぽどだ。
母は俺に、どうしようかと目で訴えてきたが、とりあえずこんな夜中に、女の子と(しかも兄の彼女と)インターホン越しにやり取りするのはよろしくないので、玄関までは上がってもらうことにした。

母が「ちょっと待ってねー。」とか声をかけながら玄関に向かう。

2階から兄が何か叫んでいるのが聞こえた。

―カチャリ。

玄関を開ける音。
と同時に母の、まさに耳をつんざくような悲鳴。
「ギャーーーッッッ!!!」
俺の肩がビクッとすくみあがった。
リビングで耳掻きをしていた親父も、耳かきを耳に突っ込んだままの状態で肩をすくませている。
急いで玄関に向かって、母に声をかけようとするが……。

…動かない。

…動かないのだ。

肩が自分の頬くらいの高さまで上がった状態で、金縛りにあったかのように、身動き一つ取れなくなってしまった。
体に力を入れようとしても(というか、この体勢自体すでに肩に力が入っているのだが)、全くダメ。
声も出せない。
かろうじて目だけ動くので、横目で視界の端に親父を捕えたが、どうやら親父も同じ状態らしい。

リビングから玄関に通じる扉は開かれている。

―ギシ…ギシ…

―シャッ…シャッ…

玄関から衣擦れの音とともに、誰かが来る気配がする。

洋子さんだ。

…いや、洋子さんなのか??

黒いワンピースの裾が見える。

以前、1度だけ洋子さんに会ったことはあるが…
今目の前にいるそれは、俺の記憶にある清楚なお嬢さん風の洋子さんとは全くの別物だった。

サラサラだった長い黒髪は、寝起きのように不気味にからまり、リングの貞子とまではいかないが、顔の前にもいくつか筋を作って垂れ下がっている。
もともと色白だったが、今露出している肌は、顔ももちろん、血の気が失せたかのようにまっ白だ。

歩き方は、なぜか異常なまでに内股だ。
そして右腕は横の壁に這わせて、左腕は前方の空間をまさぐるように、ブンブンと振り回している。
そう、まるで暗闇で何も見えないときのようだ。
だが、もちろん電気は煌々とついているわけで、それの不気味な姿ははっきりとよく見える。

扉の前を通りすぎるとき、洋子さんはゆっくり俺の方に顔を向けた。

「ヒッ…!」

俺は叫び声を飲み込んだ。
と言うか、もともと金縛りで声は出ないのだが。

目がおかしい。
文字どおり目がおかしかった。
目の白目部分が真っ赤に染まっている。
ひどい充血とかのレベルではない。
そこに血が溜まっているかのごとく真っ赤に染まっている。

そして、黒目部分は…白い。
正確には、白に透明の膜が張ったような、濁ったような白だ。
俺と目が合っているような気もするが…
しかし焦点は合っているのかどうか分からない。

昔、B級の外国ホラーで見たドラキュラ?の目のようだった。
いや、しかし今目の前にいるそれは、もっと悪意に満ちた、見ているだけで涙が出るような、そんな恐ろしい目をしていた。

そして洋子さんはその恐ろしい目を、本当に嬉しそうに歪ませてこう言うのだ。

「…嘘ついたら、だめじゃない。」

ニターッといやらしい笑いを残した洋子さんはまた正面に顔を戻し、手探りする格好で2階に上がっていった。

しばらくして、兄の絶叫を聞くと同時に俺の意識は飛んだ。

翌朝、俺は1番に目覚めた。
親父は耳かきを手に、まだ気を失っていた。
母は玄関で倒れていた。

俺は情けないことに、兄の部屋に一人で行くのが怖かったので、(ドアを開けた瞬間、アレが振り向き、ニターッと笑いかける場面を想像してしまったのだ。)2人を起こして、兄の部屋に向かった。

一応ノックをして声をかけてからドアを開ける。

洋子さんは…いなかった。

兄は…。

兄は…生きていた。

だが…もう兄ではなくなっていた…。

「うぅううーぅ…。ぶふふふ…。」

「ぶふ…ぶふ…うふふふ…。うぉーぅう…。」

だらしなく笑った形に口を開けたまま、よだれをダラダラ垂らしている。

視線は定まらず、首を右回り左回りと交互にくるくる回している。

「兄ちゃん!おい、兄ちゃん!」

「良一!良一!」

呼び掛けても無駄な予感がしたが、呼び掛けずにはおれなかった。
そしてその予感は裏切ってくれなかった。

母はその場に泣き崩れ、父は何か悲しいような怒ったような表情で口をきつく結んでいる。

ああ…。
兄がおかしくなってしまった。

その後、両親は兄の大学に退学届けを出し、兄を病院に入れたが…
半年たった今も元には戻っていない。

というか、もうこのまま元には戻らないような予感がする。
この予感は…裏切ってほしいと一心に願っているのだが。

洋子さんは家族ぐるみで消息不明だ。
親父は警察と興信所に相談し、その行方を追っている。

あれは何だったのだろう?
親に嘘をついて兄と旅行に行った洋子さんが、それがバレて酷い目に遭った?
洋子さんの家はかなり厳しいと聞いていたが、その家自体、何かおかしな血筋だったのか?

今となっては全く分からない。

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